悪の法則

この映画は観る映画では無く、経験する映画である。経験する映画としては、これほどの傑作は無い。
この映画の狙いを理解できると、これほどのビッグスターたちがこぞって参加するのも頷ける。
善と悪、それは、主体が客体に対して持つ相対的な区別である。善悪の価値基準は、道徳のそれと同じようにニーチェなどが唱える利己性に過ぎない。
そのような思想よりも、この映画は「覚悟」の本質を強烈に現実的に経験させる表現力を持つ。
暗く流れる、恐ろしい体験的演出は、麻薬カルテルで暗躍する冷血な女性を際立たせている。キャメロンディアス演じるその女性は、肉食動物が獲物を捕らえる生存と、種族を存続させる欲求のエロイズムという純粋な欲求を描き出す。
その純粋な欲求が非道徳的なのか?それとも、その純粋な欲求を否定する聖職者が道徳的なのか。どちらでもない。善と悪は混沌として絶対性を帯びたときには単なる無である。相対性という世界の中で善と悪は、その主体者の価値観で決まるだけである。
人間の身勝手な主体的価値観を、この映画の元々の題名「カウンセラー」、すなわち法律という道徳に居座る弁護士という職業で表現する。道徳という人間の表層的な価値観は、絶対的な本能である欲の前では、単なる張りぼての代物である。
獲物を捕らえる豹のように、その獲物に容赦は無い。そんなところに、許しも言い訳も通じない。
そのような世界に安易に足を踏み入れる時、その洗礼を受ける。また、その洗礼を覚悟してその世界に生きるものもいる。また見て見ないようにするものもいる。配役でそれを見事に演出する。しかし、彼らはいつも死と隣り合わせである。覚悟の上の死は潔い。見て見ないものは、計らず死んでいく。
その覚悟の無いものは、その世界に足を踏み入れたことを後悔するが、その世界が無くなることはない。いくら懇願しても、選択をやり直そうとしても、ずっと以前からその世界は存在し変わることはない。しかし、その世界に足を踏み入れた人間の世界は既に変貌している。映画の中で明確にその戒めを表現する。
「欲」は、人間の先天にある本能であり、後天的な道徳など何の役にも立たない。しかし、自己中心的な善と悪でそれらを変えようとする人間の浅はかさは、この社会でも留まるところを知らない。
このような絶対的な本能の世界に、善と悪のような表層的な軽はずみな人間の価値観で踏み込んだとき、いとも簡単に冷血(道徳者がいう)にその存在は奪われる。道徳者がよく使う「冷血」という言葉を使ったが、それこそ血の通った現実である。私からいわせれば、ここでいう道徳こそ冷血である。
「覚悟」とは、人間であると言うことを全て受け入れることである。人間は他の命を奪い、道徳者たちがいう冷血にふるまっている。それは人間であるからであり、それを受け入れないことは「覚悟」の無い生き方である。それを悪と切り捨て、自らを善とする事の戒めは、ニーチェたちが先陣を切って行っていた。
私たちがこの映画を観て、人間の本能の純粋さと恐ろしさ、そして、それを受け入れていない人間達の愚かさを深く経験するはずである。
この映画の本質がわかれば、心の奥底にある、人間の本能を思い出し、そして受け入れ、そして選択して生きていく。そしてその人間としての「覚悟」をもって生きていくことにしか、現実は存在しないことを思い知ることだろう。
この世を生きていくのに、不満や不平、価値観の敵対、不機嫌や断絶など生まれる事への、生きる「覚悟」のなさを、弁護士を通じて経験するはずである。
この映画で、「強烈な生きる覚悟」を経験することができれば儲けものである。
人間の本質を受け入れることこそ「愛」である。その「愛」が究極の「覚悟」である。
最後にはキャメロンが一言放ってこの映画が終了する。とても純粋で、恐ろしく、そして愛に溢れた終結である。

悪の法則 – 作品 – Yahoo!映画

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