「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ」という平清盛の母舞子の歌から、平忠盛は「今を夢中で生きる」ことの大切さを教わる。
引用元: あらすじ:大河ドラマ「平清盛」.
ゆげ‐ざんまい【遊戯三昧】大辞林より
仏語。仏のように自由自在な境地。
「遊戯三昧」
これは、無門関という中国宋代に編集された公案(一般には禅問答)集の中で書かれている言葉です。
生死岸頭(生死の岸のほとり・生死の全て)に於いて
大自在を得、(少しの束縛・障害もなく、全く自由なこと。)
六道(すべての衆生「しゅじょう」が生死を繰り返す六つの世界。迷いのない浄土に対して、まだ迷いのある世界。地獄道・餓鬼道・畜生道・修羅道・人間道・天道。前の三つを三悪道、あとの三つを三善道という。六趣。六界。りくどう。)
四生(ししょう:四つの悟り の世界:声聞・縁覚・菩薩・仏)
の中に向かって遊戯三昧(ゆげざんまい)せんと書かれています。
六道の中も四生の中も、一切拘らず、要は自由気ままに、無邪気に遊ぼうと言っているのです。楽しもうと言っているのです。
地獄も楽しい。餓鬼道も楽しい。畜生道も。修羅道も、人間道も、天道も悟りの世界も、区別無く楽しい。
アウシュビッツのガス室の中で、ガスが出始めても、ガス室の中から心から楽しそうな歌声が聞こえる。この歌の境地が遊戯三昧(ゆげざんまい)。
それを聞いていたドイツ兵が、後に多くの人々のために多くの慈善事業を行った。自分の住む家はアパートの一室だったという話。
無為自然にこの世界で無邪気に生きることが出来ると、一切の不安や苦しみは即座に楽しみでしかありません。
その人の行為や言動はあらゆる世界の中で遊戯しています。
その人の全てが見えない人には、ただ、恐ろしく、強欲で、感情的にしか見えないかも知れません。
しかし、その人は、ただ、無邪気に楽しく遊んでいる。それしかありません。
この遊戯三昧。この言葉の生まれた場所は
~一体でいられる楽しみ~・・・です。
・・・・・・・・・・・
思い出してごらん、幼き時の一日の終わりを。
何事も残らずにだだ消えていっただろ。
覚えているかい、幼き時の一日の始まりを。
そこには透明な空間がただあっただろ。
そして一日全てが新鮮で楽しかったよね。
今はどうだい?
何かが違うと思うなら
それを見つけて、幼い時のように、それも楽しんでごらん。
そうすれば蘇ってくるから。
世界のあるがままがそのままの自分と一体でいられる楽しみがね。
・・・・・・・・・・・