太極拳の套路を音楽に例えると、1小節の流れがとても緩やかです。
その1小節の間に多くの音符が存在します。32分音符。64分音符・・・◯◯万分音符と。
そのまま、日常を過ごすなら、朝の太極拳の1小節の長さと時間は、日常生活の中でも一日中変わりません。
ところが、日中忙しくなってくると、ついそれを早回しにしてしまいます。
その中にある音符を奏でることができないほどです。
ひどいときには、1小節に一分音符しか聞き取れなくなります。
そして最後にはその一分音符さえ見つからなくなるのです。
朝の套路の1小節のスピードは最も自然で緩やかで心地良いものです。
これが自然のリズムです。
そのリズムで緩やかに日常でも奏でていきます。
早いパソコン打ちの作業も、1小節の中にある音符の一つです。
1小節の長さと速さは変わらないのです。
ゆったりと流れる1小節の中に、とても多くの音符が奏でられるものです。
とても多くの作業を緩やかにこなすことができるのです。
朝の緩やかな套路のリズムと、日中の仕事や生活の時間のリズムは、一つも変わりません。
小節の長さと時間を変えてしまうから、慌ただしく息を継ぎ、その内にある音符も奏でることができないのです。
朝、鳥がなき声を出す前のささやかな息づかいが、一つの音符なら。
パソコンのキーボードのAを打つ時に触れた指の感覚も同じ一つの音符です。
何も違うことは無いのです。
朝の套路の1小節の内にある音符が奏でるものと、日常の音符が奏でるものは同じなのです。
せっかく朝の套路を自然のリズムで奏でたなら、一日中同じリズムで奏でていきたいものです。
自然のリズムは変わらないのです。
忙しく、心亡くす人は、ただその音楽を早回しをして、1小節を短くして、その内の音符を捨てているだけなのです。
メロディーも無く。ただ、早く焦って命を費やしているのです。
朝の套路で、自然と一体になるような時間の速さと、その音符を感じたら、それが最も人間にとっても心地良く摂理に合ったものです。
一息の間に、無限の音符が奏でられるのが太極拳の世界です。一息が1小節、そう感じてみると穏やかでおおらかな音楽が聞こえてきます。