FaceBookの友達申請をいただき、受け入れたら、急に、以下のメッセージを頂きました。急であろうが、メッセージはどのようなものであれ歓迎です。但し広告は結構です。メッセージを頂く場合は、私とのコミュニケーションや連絡のやりとりです。知り合いやお友達から頂く。そして、切通さんもお友達です。
メッセージをここに掲載して、SNSにも分散しても良いという承諾をいただき、全文を原文のまま掲載します。久しぶりに、実名を明かしている方と、しっかりと楽しいお話ができそうです。楽しみです。… 続きを読む
名の無いところに実体がある
イスラム国の人質事件はFaceBookなどのSNS、そしてマスコミの情報が奔走して、私たちの周りを駆け巡る。
それらに出てくる情報は、人間の五蘊のほんの砂粒程度しか無い。
私は自分が大好きである。即ち人間たる自分が大好きであり、結果、人間の骨の髄までに興味があり、その人間の縁まで想いが果てしなく及ぶ。因果は因縁によってこの世界を形成している。
全てこの世の中に起こる現象は、人の心のなせる映像である。世間虚仮ともいうが、それが像を成している。その像には実体がある。その実体は「空」であるから、あらゆるものを和合した全てであり、すなわち無であり有である。… 続きを読む
小保方晴子の裏ストーリー~38兆円の巨大利権がSTAP細胞を脅し潰した~ | netgeek
小保方晴子の裏ストーリー~38兆円の巨大利権がSTAP細胞を脅し潰した~ | netgeek.
真実は違和感を感受し、その想いに心を委ね、思考し行動し、そして認識する。それらが全てクリア(無)になるまでそれを繰り返す。
その過程で、真実を発見する。森羅万象である「有」が浮き彫りになる。
そうすると、STAPの一連の事件は手に取るように真実がわかる。
般若心経にある受想行識を唯識論の行のとおり行うのである。太極拳はそれを現実に自分の体と心を実験台として行う事ができる、導引法でもある。… 続きを読む
フェイスブックのナスダック上場決定・・・で考える。
FaceBookを始めて試行錯誤だが、最近またMIXIにも舞い戻った。
日本では、FaceBookは顔見知りの友達が友達申請をするという、アンリットンルールが根強い。多くの見知らぬ人に友達申請するものは敬遠されているようだ。
そもそもFaceBookは大学内でのコミュニティ作りに始まった。しかしながら、よく考えてみると、顔見知りだけではなく、同じ大学にいるということだけで友達申請ができ、それを受けてネットワークを広げている。… 続きを読む
小泉純一郎さんと子供
選挙前のテレビ討論の際、教育政策について尋ねられた小泉首相が、他の政治家たちが具体的な政策について話す中、「子供はまず、ぎゅっと抱きしめてあげることが大事」と熱く語っていました。
私がまだ大阪にいる頃、和歌山か大阪の南の方だったかは忘れましたが、自民党のパーティに参加したことがあります。
その時にとなりの丸テーブルに座って、子どものことについての話をしていて、愛やら、抱きしめるやら、何か政治家らしからぬことを笑いながら大きな声で話していて、その爽やかな笑い方が凄く印象が良くて、その当事は変わった人もいるのだなと思っていたことを思い出しました。その人が今思い出すと小泉さんでした。たぶん隣に座っていた佐藤恵議員(時の郵政大臣だったかな?)に教えてもらったのだと思います。(私の母と懇意にしていました。)名前と共に印象が強く残っていました。… 続きを読む
遊戯三昧(ゆげざんまい)
「遊びをせんとや生まれけむ、戯れせんとや生まれけむ」という平清盛の母舞子の歌から、平忠盛は「今を夢中で生きる」ことの大切さを教わる。
引用元: あらすじ:大河ドラマ「平清盛」.
ゆげ‐ざんまい【遊戯三昧】大辞林より
仏語。仏のように自由自在な境地。
「遊戯三昧」
これは、無門関という中国宋代に編集された公案(一般には禅問答)集の中で書かれている言葉です。
生死岸頭(生死の岸のほとり・生死の全て)に於いて… 続きを読む
横山紘一 – Wikipedia
横山紘一
引用元: 横山紘一 – Wikipedia.
横山さんに会ってきました。全ての道はアルコールに通ずると冗談を言っていました。そして、感謝をするということの大切さをしきりに話していました。
肝臓が痛いという横山さん。ぜひ肝臓にも慈悲を・・・・
唯識は学問ではなく、人として生きるということの上での、「自分とは何か」ということを明らかにしていこうとする羅針盤です。
五臓六腑・森羅万象 唯識はその全てと共に人間として生きていることを明らかにしてくれるはずです。… 続きを読む
遊戯三昧という世界
本を読んで知識を得ようとすると、読んで覚えようとする。そんな事はしない。
私が、本を読む事は、子供が絵本を読むように経験である。
だから私は、斜め読みができる。
経験に勝る情報はない。
いくら本を読んでその真似をしようとしても、覚えようとしても、所詮その情報を記憶しただけである。
本を読むも、映画をみるも、自分の主体で経験する。
本も映画も他人事だと感じるのは普通である。
しかし、自分の人生の一場面の選択とよく似た事があるかもしないし、また自分ならどうすると感じる事もできる。… 続きを読む
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